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物語を通して、登場人物への深い共感と冷静な状況判断力を養う読書法

Tags: 共感力, 客観性, 読書術, 物語読解, 対人支援

はじめに

物語の登場人物に深く共感することは、私たちの感情の幅を広げ、他者の内面を理解するための重要な経験です。この共感力は、対人関係、特に他者への支援や関わりにおいて不可欠な力と言えます。しかし、現実の複雑な状況において、共感だけでは不十分な場合があります。感情的な寄り添いと同時に、状況を冷静に分析し、客観的な視点から判断を下す能力もまた、極めて重要です。

では、読書を通じて、登場人物への深い共感を育みながら、同時に状況を客観的に捉え、判断する力を養うことは可能なのでしょうか。本記事では、物語を読む際に意識することで、この二つの異なる能力を同時に磨くための具体的な読書法について考察します。

共感の深化と客観的な視点の必要性

物語における共感は、登場人物の喜びや悲しみ、葛藤などを追体験し、その心情に寄り添うプロセスです。これにより、私たちは多様な人生や価値観に触れ、自分自身の内面や固定観念に気づく機会を得ます。これは、自己理解を深め、他者への想像力を育む上で非常に価値の高い経験です。

一方で、物語の世界であっても、あるいは現実世界であればなおさら、ある人物の言動や状況を理解するためには、その人物自身の感情や視点だけでなく、周辺の情報や全体像を把握する必要があります。作者が地の文で語ること、他の登場人物からの視点、物語の進行によって明らかになる事実など、様々な要素が複合的に絡み合って一つの状況を作り上げています。登場人物が見ている世界は、物語が描く世界の全てではありません。

この「登場人物の視点」と「物語全体の視点」を意識的に切り替えることが、共感と客観的な状況判断力を同時に養う鍵となります。深い共感を通じて「この人物はこう感じ、こう考えているのか」と理解しつつ、同時に「しかし、客観的に見ると状況はこうであり、他の人物はこう捉えている。この人物の行動は、このような結果を招く可能性がある」というように、多角的に状況を分析する視点です。

対人支援の場面では、相手の感情に寄り添い共感する力と、その人が置かれている状況、背景、利用できる資源、制度などを冷静に把握し、最も良い選択肢を共に考える判断力、あるいは危険を察知する客観的な視点が求められます。物語の読書は、まさにこの「感情的な理解」と「分析的な視点」を行き来するトレーニングの場となり得るのです。

物語で共感と判断力を養う具体的な読書法

物語を通じて深い共感と冷静な状況判断力を磨くためには、以下のような読書法を意識的に取り入れてみることが有効です。

1. 登場人物の「なぜ」を深く掘り下げる(共感深化)

物語を読む際、登場人物の感情や行動に対して単に「そうか」と受け止めるだけでなく、「なぜ、この人物はここでこのような感情を抱いたのだろう」「なぜ、このような行動をとることに決めたのだろう」と、その背景にある思考や経験、価値観を深く掘り下げてみてください。作者が明示していない場合でも、これまでの描写から推測する訓練を行います。これにより、登場人物の内面への理解が深まり、共感力が育まれます。

2. 「語り手の視点」と「登場人物の視点」を区別する(客観性養成)

三人称で語られる物語の場合、地の文は多くの場合、登場人物の視点を超えた「語り手」からの情報を含んでいます。登場人物が気づいていない伏線、読者だけが知っている事実、登場人物の誤解などが描かれていることがあります。これを意識して読むことで、「登場人物はこう感じているが、真実はこうだ」「この人物はこう行動したが、その行動はこのような結果につながるだろう(読者にはその情報が与えられているから)」といった、客観的な視点を養うことができます。一人称の語りでも、語り手が自身の状況を正確に把握できていない場合があります。語り手の言葉を鵜呑みにせず、そこに含まれる偏りや、語られていない可能性に思いを巡らせることも重要です。

3. 複数の登場人物の視点から同じ出来事を読み解く(多角的理解)

群像劇や、同じ出来事が異なる登場人物の視点から語られる物語は、多角的な視点を養うのに最適です。一つの出来事に対して、登場人物Aはどのように感じ、行動したか。そして、それを見た登場人物Bはどのように感じ、行動したか。それぞれの背景や関係性が、その感じ方や行動にどう影響しているのかを比較して読み解きます。これにより、物事には様々な側面があり、立場によって見え方や解釈が全く異なることを理解できます。これは、現実世界で多様な人々や複雑な状況を理解する上で不可欠な視点です。

4. 物語の構造や展開を分析する(状況判断力養成)

優れた物語は、無数の要素が有機的に結びついて構成されています。登場人物の過去の経験、性格、人間関係、置かれた状況、小さな出来事が、その後の展開にどのように影響するのか、注意深く追ってみてください。伏線がどのように張られ、回収されるのか。登場人物の選択がどのような結果を招くのか。作者が意図するテーマやメッセージは何か。こうした構造や展開を分析的に読み解くことは、現実世界で目の前の状況を構成する要素を分解し、因果関係を読み取り、未来の展開を予測する(あるいは複数の可能性を考える)という状況判断のプロセスと共通しています。

5. 読書ノートに「感じたこと」と「分析したこと」を記録する

読書中に心揺さぶられた感情や、共感した登場人物の言動などを率直に記録する一方で、「なぜそう感じたのか」「物語のこの部分は客観的に見てどういう状況か」「登場人物はこう考えているようだが、他の情報から判断するとどうだろうか」「この出来事は物語全体の構造の中でどのような意味を持つか」といった、分析的な視点からの考察も記録してみましょう。感情的な反応と論理的な分析を意図的に分けることで、それぞれの質を高め、両者のバランス感覚を磨くことができます。

結論

物語を読むことは、単に時間を過ごす娯楽ではありません。意識的な読書を通じて、私たちは自身の内面を深く探求し、他者への想像力を育むと同時に、複雑な状況を多角的に理解し、冷静に判断する力を養うことができます。登場人物への深い共感を通じて心の機微を学び、物語全体の構造や複数の視点を読み解くことで客観的な状況判断力を磨く。この二つの力は、現実世界で他者とより良く関わり、適切な意思決定を行うための、いわば両輪です。

物語の世界で共感と客観的な視点を行き来する訓練は、必ず現実世界でのコミュニケーションや問題解決に活かされるでしょう。限られた時間の中でも、意識を少し変えて物語に向き合うことで、読書体験はより豊かで、私たちの成長につながる貴重な時間となります。ぜひ、次に物語を開く際には、登場人物の心に寄り添うだけでなく、物語全体が示す世界を俯瞰する視点も大切にしてみてください。